今だからこそ、「英国領時代の香港」の記憶を
中学時代の香港に対する記憶から
僕が中学生の頃、当時の英国領の香港を訪れたことがあります。
理由はあえて書きませんが、"この時期"だからこそ、敢えてその英国領時代の香港の記憶を書いてみたいと思います。
まだスマートフォンどころか携帯電話もデジカメのない時代。残念ながら当時の香港の写真が一切ありませんので、数年前に再び香港を訪れたときの画像をイメージとして幾つか載せたいと思います。
帰国子女の影響で抱いた、香港への憧れ
中学時代、香港育ちの帰国子女の同級生の影響で、僕は香港に対し憧れを抱いていました。
彼はどことなく知的な雰囲気があり、ドラえもんのキャラクターで言うなら出木杉くんのような、子どもながらにインテリジェンスで爽やかなキャラクターでした。
また彼は僕と同じくエアラインのファンであり、学校の廊下などでエアラインの話をする傍ら、彼が育ってきた香港の話をたまにしてくれました。
その影響で、僕はまだ見たことのない香港という地に対して憧れを抱き、いつか行きたいと思うようになりました。
僕が香港に行きたかった理由は他にもあり、
- 当時「東側諸国」と呼ばれた共産圏の中国の囲まれる様に、ポツンと「西側諸国」の香港が存在することが興味深かったこと
- 「植民地」がどんなものなのか興味があったこと
- 当時世界一着陸が難しいと言われた香港啓徳国際空港の着陸を体験してみたかったこと
- 当時成田-香港線に就航していたアメリカのノースウエスト航空(現・デルタ航空)のジャンボ機に乗りたかったこと
- 美味しい中華料理を鱈腹食べたかったこと
など、色々とありました。
初めての香港
僕はそんな憧れの香港に連れて行ってもらうために、何度も何度も親に頼み込みました。そして中学2年の14歳のときに、ついに念願叶い家族旅行として連れて行ってもらいました。
成田から念願のノースウエスト航空のジャンボ機(B747-200B)に乗り、香港啓徳空港の名物だった「香港カーブ」を経験しました。夜の明かりが華やかな香港の街のど真ん中を、高層ビルの屋上すれすれの低空で右旋回し、あっという間に着陸する様は圧巻でした。
当時は英国の「植民地」
僕はまだ中学生ながらも海外の政治的な問題や海外の時事問題に興味があり、当時から海外に対する好奇心が旺盛でした。
当時の香港はまだ英国領であり、これまでに僕が渡航した国や地域の中では唯一の「超大国による植民地」です。
世界的に「植民地」が次々と過去のものになりつつある中、まだ現役の「植民地」だった地域を訪れたことはとても感慨深いものでした。
想定外にお洒落でファッショナブルな街
中学時代といえば、同級生や友だち同士刺激し合いながら、服や容姿などに気を使い始める時期かと思います。
当時僕もチェックメイトやBoonなどといったメンズファッション誌を読みながら、流行りの古着のリーバイスのジーンズなど服を色々と買っていました。
もちろん世界的なファッションブランドのショップが集うようなお洒落な海外の街の雰囲気にも憧れていました。
でも香港に行くまでは、香港をはじめアジアの諸都市に対し、どことなく雑多でごちゃごちゃしていて、垢抜けないイメージを持っていました。
しかし実際に訪れてみると、あのネイザンロードを始め街のあちこちにお洒落なブティックやショップがたくさん立ち並び、お洒落な服装に身を包んだ人が大勢行き交い、自由で活気あふれていました。
それまで抱いていた垢抜けないイメージが払拭され、カルチャーショックというか、ある意味で期待に裏切られたのを覚えています。
そして香港の街でNIKEやリーバイス、香港ブランドのジョルダーノなど、様々なショップに行き、カットソーやデニムパンツなどを買ったのを覚えています。
そんな自由で平和で活気ある香港をいつまでも
英国領だった当時から、香港はとても活気があり、治安が良く、自由で平和で活気ある地域です。
大人になってから中国に返還された香港にも行ったけれど、相変わらずでした。
さて、話は長くなりましたが、結局何が言いたいかと言うと、これまでも末長く、香港が自由で平和で活気ある地域であり続けて欲しいと思います。
そして願わくば、成田から僅か4時間で、LCCで片道¥5,000で行けちゃう香港に、また気軽にフラッと行ける日が来ることを願っております。
加油 香港!